第35回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(4)1968 

第35回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(4)1968 
2024-01-21

東京サマーランドのウエーブプールを紹介した厚木基地に勤務するアメリカ人、スティーブ・ペリン氏は同じ年のSURFER誌(1968年7月号)に日本のサーフィンを紹介する記事を寄稿しています。記事には、氏が撮影したサーフポイントの波やビーチの様子など多くの貴重な写真が記録されています。また日本のトップサーファーとして鈴木三平氏、ドジ井坂氏、川井幹雄氏、長沼一仁氏の名前が挙がっており、日本人として嬉しくなります。

以下はSurfer誌(Vol 9#3)に掲載されたペリン氏のレポートです。

JAPAN -Land of Rising Sun

文、写真:スティーブ・ペリン

タイフーンサーフ

夜中の3時にマイクから電話があった。これから下田にタイフーンサーフに行く誘いだった。マイクは英語が話せる日本人の友人で、東京銀座でサーフショップを経営している。夜明け前の銀座は人通りが全くなく、17分後に彼のショップに着くと、トヨタのステーションワゴンにボードを何本も積んで待っていた。ジュンジを彼の家の前で、シンイチを銀座の角で拾い、カズヤと彼のガールフレンドの待つ駐車場へ向かった。カズヤはホットドッグなサーファーでホンダのスポーツカーに乗っている。
これから伊豆のタイフーンサーフに出発だ。

アーニー・タナカの美しいトリム(勝浦ポイント)

日本のサーフワゴンは私がトレッスルズやマリブに行くときに使っているクルマとは違っていた。小柄な日本人にはちょうど良いサイズだが、180センチのアメリカ人が乗ると、まるで缶詰に詰まったサーディンようだ。下田までは5時間160キロのドライブだ。

美しい丘と入江に囲まれ、細い道を走っていると、なんて素晴らしい国なんだろうと思う。田園が何キロも続き、右を見れば信じれられないほど美しい富士山がそびえている。日本のリビエラ、熱海をドライブしていると、太平洋から朝日が昇り始めたばかりで、通りはすでに温泉場に向かうかわいいお嬢さんたちで賑わっていた。色とりどりの浴衣や帯に身を包んだお嬢さんたちはとても素敵だ。

熱海を抜けると、半島の入り組んだ海岸線に沿って曲がりくねった道を走ることになった。そしてついに、半島を下った先にある下田サーフィンビーチに車を止め、初めてパーフェクトな12フィートのタイフーンサーフを見ることできた。ワゴンに乗っていた全員が、どの国の言葉でも翻訳が必要としないサーファーの叫びを上げた。

車からボードを下ろし、ビーチをチェックすると、1キロに渡る美しい砂浜が広がっていた。浜の両側は小さな岬になっていて、レフトとライトのブレイクが見える。一番の波は湾の中央あたり、岩の先でブレイクしているポイントだ。

すでに注目の日本人サーファーが大勢入っていたので、私たちもすぐにパドルアウトして合流した。昨年10月に勝浦で開催された全日本サーフィン選手権で優勝した日本屈指のサーファー、鈴木三平、そしてタイフーンサーフを楽しむジュニアの中には、ドジ井坂、川井幹雄、長沼一仁がいた。
クイックなターン、派手なフットワーク、波のクリティカルな場所で常にトリミングするなど、ジュニアたちは日本流のスムーズかつアグレッシブなサーフィンを披露していた。

私たちがサーフィンをしている間、田んぼで作業していた農家の人たちが手を休め竿にもたれかかりながら見ていた。アメリカの文化が歴史あるこの国に広がるのを見つめていた。

スズキヨシコは数少ない女性サーファーのひとりだ

ジェリーフィッシュのランチ

日本でのサーフィンのもうひとつの醍醐味は素晴らしい料理だ。海から上がり近くの旅館に蕎麦とアサヒビールのランチを食べに行った。

蕎麦はスープのようなもので、風味を出すため色々な食材が使われている。マイクに倣って私もNo.1とNo.2を注文した。No.1はクラゲで、No.2はウニだ。アメリカ人がピーナッツをつまみながらビールを飲むのと同じでどちらもビールの最高の肴だ。

箸で蕎麦を食べようとすると滑り落ちてしまいなかなか難しい。箸を使えるようになってようやく日本食の味を知ることになる。とは言ってもほぼご飯と魚だ。朝昼晩に魚料理が出されるが、魚以外だとタコ、イカ、くじら、サメ、クラゲ、カニ、アサリ、ウナギ、海藻ということになる。もちろんウニもある。

日本は近代的で、世界で最も進歩的な国で、もちろん洋食を注文することはできる。以前典型的な日本旅館でアメリカンブレックファーストを頼んだことがあるが、粉のようなスクランブルエッグに大量の生のベーコン、半斤の食パンに大量のバターが出てきたことがあった。ここでは日本の郷土料理を楽しむ方が簡単で美味しいということだ。

インスタントサーフィング

サーフィンは5年ほど前、日本に駐留した米軍の兵士が始めたのが最初だ。サーフィンは昨年まであまり流行ってはいなかったが、今年は倍増し、来年の夏にはさらに倍増すると地元のサーファーが言っていた。岬や入り江が多く、春、夏、秋に素晴らしいうねりが入ってくる日本は、数年以内にアメリカやハワイのようにポピュラーなスポーツになるだろう。

サーフィンが普及し始めてまだ2年しか経っていないが、日本人はすでに最新のボードデザインや関連商品、例えばカラーワックス、カスタムトランクス、ウェットスーツ、キャリア、サーフクラブの名前が刺繍されたジャケットなどあらゆるものを手に入れている。

どのように日本がこれほど早くサーフィン界の表舞台に躍り出たのか、それは彼らがコピーをしたからだ。
ほとんどの日本人サーファーはアメリカのサーフィン雑誌を購読していて、気に入ったものがあれば真似をする。日本には4社ほどサーフボードメーカーがあり、ボードのトレンドやデザインは、雑誌の広告や来日したアメリカ人が持ち込んだボードをコピーしている。

全体的に日本製のサーフボードの出来は良い。いろいろなメーカーのいくつかのモデルを試したが、どれもアメリカ製のボードと比べても遜色はないほどだ。

アメリカから遠く離れていても、ビーチシーンはさほど変わりはない。全てのサーファーが英語を話せる訳ではないが、ハングテン、キックアウト、スピナーなどの言葉で、十分サーフィンの話はできる。海から上がれば、自分のパフォーマンスを身振り手振りで仲間に伝える。

日本人サーファーは、雑誌の写真やサーフィン映画でトップサーファーのスタイルを研究し、練習して真似る。近い将来、第一線で活躍する日本人サーファーが出てくるのは間違いない。

グレートサーフスポット

現在、サーフィンが盛んなのは東京周辺だが、島国の日本はどこも素晴らしい波がある。最も盛んなのは、東京の南、相模湾と千葉県の北であろう。
相模湾のサーフエリアのほとんどがビーチブレイクで、中でも湘南エリアは神社仏閣が多く、夏には海水浴客で賑わうリゾート地だ。普段波は小さく、潮によって常に変わるサンドバーにより100メートルほどブレイクする。ファンウエーブだが、時に6フィートの波がヒットすることもある。

上:伊豆半島の突端に位置する日本の代表的なサーフビーチ”白浜”、美しく透明度の高い水にレフトとライトの波がブレイクする
下:白浜コンテストの表彰式

あの有名な雪を頂いた富士山を見ながら、南の端に行くと白浜と下田のブレイクがある。この2つのポイントは8キロほど離れており、反対方向を向いているので片方がオンショアが吹けば、もう片方がオフショアになる絶好の位置にある。どちらもビーチブレイクだが、カリフォルニアのズマビーチに似たハードなブレイクだ。

キャプションなし(上はパシフィックホテルの位置から鵠沼あたりか)

東京湾の反対側、東に位置する千葉は、おそらく日本で最高の波が立つ場所だ。特に勝浦のマリブビーチはハワイ以西で最高の波がある。マリブが8〜12フィートの日は、マリブ出身の私が見てもカリフォルニアのマリブ以上のブレイクに見える。波がリーフにヒットすると、パーフェクトな形でせり上がり、ワイドなピークは一気に崩れるため、非常にスティープ(急)なテイクオフになる。テイクオフするとセクションのない安定したマシンブレイクになる。

日本で最高の波が立つ太東ビーチのパーフェクトなチューブ
北海道苫小牧ビーチ オフショア5〜6フィート 写真:ビル・ウォルフ
6フィートの熱川 ローカルは岩を嫌がり誰もサーフしない。 ライトもレフトと同じくらい良い
ローカルサーファーの皆さん
テントやサーフボードで賑わう白浜ビーチ
タイフーンサーフの江ノ島。 ローカルがクイックな波にロックイン
A Japanese beach beauty
波が小さい日のマリブポイント 混雑はいつもと同じ
下田の海に向かう二人
オフショアのパーフェクトブレイク 勝浦
伊勢佐木町 横浜ナイトライフセンター

風呂での出会い

日本が今後サーフィン大国のひとつになることは間違いないだろう。こちらの人はそう信じているが、あの素晴らしい波をサーフすれば誰しもそう思う。日本のサーフィンにも新たなサーフィン用語やルーティーンが加わることだろう。
日本ではスポーツで汗を流した後、ミネラル豊富な熱い温泉に浸かる習慣があるが、そういうものもルーティーン化して欲しいものだ。

私の場合、伊豆へのトリップの後は必ず熱海近くの温泉に入ることにしている。お気に入りは日本伝統を受け継ぐ小さな旅館だ。ここは硫黄の湯が地面から湧き出ている大浴場で、ゆったりと浸かるとサーフィンで疲れた筋肉をほぐれるように気持ちよくなる。

湯気の立ち上る風呂に浸かっていると、なんと二人のお嬢さん達が入ってきた。混浴が日本の古い伝統と聞いていたが、まさかアメリカ人の私がこの場に出くわすとは思っても見なかった。
向こうもこちらに気がついたのか「ガイジン」という言葉が聞こえた。二人は近づいてきて「私たちは東京の大学で英語を勉強しています。お話ししても良いですか?」と尋ねてきた。カリフォルニアのサーフィンのこと、ベトナムのこと、米海軍のこと、小一時間ほどお話しをした。

その夜、私の日本人の友人を誘い、お嬢さん達と熱海のナイトクラブで歌ったり、ゴーゴーダンスしたりと楽しいひと時を過ごすことができた。まあこういうこともサーフィンの楽しみのひとつだ。

以上SURFER誌Vol.9#3より

最後は女の子の話題で終わるのがペリン氏の記事の特徴だ。
今回の投稿では多くの写真が掲載されていますが、もっと当時の写真を見たくなります。

1963年のデル・キャノン氏らの訪日から68年のペリン氏までアメリカ人の視点で描かれた日本のサーフィン記事を紹介してきましたが、全ての記事で共通しているのは、日本は波だけではなく食事や景観といった日本文化が魅力的と紹介されています。日本についての関心が高かったようで、Surfing誌に於いても1966年、1969年に日本の記事が載っているようです。

70年代に入り、ボードは短くなり、サーフィンがよりハードでアグレッシブになってくると、大きい波、ハードな波を求めハワイがメインストリームとなり、日本に関する記事はほぼ見かけなくなりました。

「アメリカ人サーファーが見た60年代の日本」終り