第32回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(1)1963

第32回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(1)1963

もうひとつの「エンドレスサマー」

日本で最初にサーフボードでサーフィンしたのは、1960年頃駐留していたアメリカ軍の兵士が、湘南や千葉でサーフィンしたのが始まりと言われています。日本サーフィンの草分けである佐賀紀允氏は1961年7月に東急レストハウス前でサーフィンしていた米兵に話しかけ、教わったのが日本人によるサーフィンの始まりと述べております(「サーフィン:ザ・オフィシャル・ハンドブック〜日本のサーフィンの歴史」1986年)。

アメリカのサーフィン雑誌で初めて日本が紹介されたのが1964年。創刊から4年目のSurfer誌(Surfer Vol.5 No.3)でした。ブルース・ブラウン監督が「エンドレスサマー」の撮影のためロングビーチ出身のサーファー、デル・キャノン氏とオーシャンサイド出身の13歳、ピート・ジョンソン氏とともに訪日したのが1963年夏。その旅の様子をデル・キャノン氏がレポートした記事でした。

ブルース監督はこのジャパントリップから帰国後、11月にマイク・ヒンソン、ロバート・オーガスト両氏とともにアフリカに向かっています。

6ページに渡るレポートにはブルース監督の写真とともに、”日本のサーフィンの父”とも呼ばれているタック・カワハラ氏が彼ら3人を撮影した写真も掲載されています。寄稿記事は湘南や千葉で発見したポイント、翌年にオリンピックを控えた大都市東京の街の様子、そしてアメリカ人にとって珍しい日本の文化についても紹介しています。

また掲載された写真には、鵠沼でよくサーフし、佐賀氏らにサーフィンを教えていたというフィル・ドリップ氏(*1)の貴重な写真も掲載されています。

以下Surfer Vol5.#3 page55−60の記事 

JAPAN

文:デル・キャノン 写真:ブルース・ブラウン、T・カワハラ

左上:またしても東京の交通渋滞にはまり伸びをするデル・キャノン、中上:旅館の前でお辞儀でお見送り、右上:アイスクリームというを珍しい日本食を試食するデルとピート、下:冠雪の富士をバックにフィル・ドリップス(*1)が日本のレフトをサーフ

正直なところ、世界最大の都市東京の近郊でサーフィンができるなんて信じれられなかった。今回一緒に旅をするのは、オーシャンサイド出身のピート・ジョンソン、彼は13歳だが12歳の時にワイメアを乗りこなしている。そしてダナポイントのサーファーであり、写真家のブルース・ブラウンだ。

東京に着いて早速戸惑うことになった。サーフィンの情報を得ようと現地の人に聞いてみたが全く英語が通じない。こちらも日本語が話せないので持ってきたスチール写真とSURFER誌を見せて自分たちが何について話しているのかを理解してもらった。おそらく日本語には「Surfing」に該当する言葉は無いようだ。

東京の交通事情はひどいもので、日中にトンネルを封鎖して作業をするものだから渋滞は何キロも続き、50キロ進むのに4時間もかかった。またトラックからオートバイまでありとあらゆる交通機関が信号ごとに猛ダッシュし、急発進急停車を繰り返している。

カメラを片手に新たなカメラワークを探るブラウン
カモガワブレイクォーター(鴨川堤防)でのキャノン
サーフについて考え込むジョンソン

4時間かけてやっとのことで渋滞を抜け、東京から50キロほど離れたところに最初のサーフポイントを見つけた。そこは、「酒の味がする川」という意味の「酒匂川」(*2)と呼ばれる川の河口だった(実際、酒の味はしなかったが…)。ビーチはカーブしていて小さなポイントブレイクのような波だった。波がビーチに沿ってブレイクするので、普通のショアブレイクよりロングライドが可能だった。大きな湾の奥にあるので、波はそれほど大きくなることはなかったが、かなり速めの波を楽しむことができた。

ピートはここですごいライディングを披露した。小柄な彼は、かがむとすっぽりチューブに入ることができ、冲に浮かぶ釣船をバックにチューブの波を爆走する光景はなかなかのものだった。

私たちがサーフィンしていると大勢の人が集まってきて、ワイプアウトするたびに歓声が上がった。
海から上がると彼らに取り囲まれ、珍しそうにボードを調べ始めた。何か質問をしてきたが日本語がわからず何も答えられなかった。おそらくサーフィンの道具というより釣りの道具として興味を持っているのだろうというのが私たちの結論だった。

将来、サーフィンが日本で流行ることはまずないだろう。というのもボードの持ち運びが難しいからだ。日本では自家用車を持っているのは一部の富裕層で、多くは列車で移動している。何千もの日本人サーファーが長いボードを抱え、列車に押し寄せる光景は全く想像できない。

私たちは、数日東京で過ごした後、レンタカーを借りてフェリーで東京湾を渡り、房総半島を横切って太平洋岸に出てみた。ここでは素晴らしいサーフスポットに出会うことができた。房総半島を海岸線に沿って進むと、小さな漁村やボディサーフィンに良さそうなスポットを多く見かけた。コンディション次第でボードサーフィンもできそうだ。

房総半島は東京から70キロ程しか離れていないが、感覚的には100年ほどの差に感じられる。緑豊かな森、輝く水田、そして絵のように美しい日本家屋。水は澄んでいて、大きな松の木が水際まで生えている。日本の田園風景がこんなにも美しいとは思わなかった。

田舎の道路は白線もなく、左側通行の日本でつい右側を走ってしまい、危ない目に何度か遭いそうになった。田舎の道路は舗装されておらず、でこぼこ道で車を痛めないようみんなゆっくり走っているが、一旦街の中の舗装道路入るとトラックまでもが猛スピードでかっ飛んでいる。

20フィート以上もある勝浦のアウトサイドを眺めるデル 写真:T・タカハラ
酒匂川河口で最高のライトを乗るデル 写真:T.タカハラ
酒匂のスモールピークをトリムするピート 写真:T.タカハラ
沖の釣船をバックにノーズライドするデル 写真:T.タカハラ
酒匂の波でロックインするピート 写真:T.タカハラ
酒匂のクリーンウォールをトリムするピート

千葉で最初にサーフィンのできる場所を見つけたのは鴨川という小さな漁師町だった。海に向かって石造りの堤防が伸びていて、ドエニー(*3)に似た良いブレイクがあった。ここはレフトもライトも良かったが、どちらかというとライトの方が良かった。滞在中ほとんど波があり、オーバーヘッドの日もあった。8月だったが、天気も良く、嵐もなく、水温も20度くらいだった。

私たちが泊まった小さな旅館は鴨川の堤防から200メートルの場所にあった。この宿はまさにサーファーズパラダイスで、1200円(3ドル50セント)という安さで、食事、寝巻き、下駄、歯ブラシ、髭剃りなどあらゆる物が含まれている。

私たちがこの町で唯一のアメリカ人だった。町の人たちはとてもフレンドリーで、私たちに大変気を使ってくれた。部屋での食事は5人の女性が給仕をしてくれた。食事は美味しかったが、私たちが普段食べているものとは違っていた。生魚、揚げた魚、煮魚、かまぼこ、タコ、殻ごと食べる5センチほどのカニ、それに海苔が添えられる。スープにはハチドリの生卵のようなものが浮かんでいた。どれも美味しくいただいたが、ここでは好きか嫌いかは関係なく他のチョイスはなかった。朝食も同じような食べ物で、それに慣れることはなかった。朝一番に小魚を頭から飲み込むのは辛かった。

毎朝、町長と5人の「ママさん」が宿の前で見送ってくれた。女性たちは皆、少年のピートよりも小柄で、大人の私たちはまるで漫画に出てくる巨人のようだった。

サーフィンを楽しんだ後は、宿に戻って共同浴場に浸かった。小さなプールほどの大きさで熱い湯が張ってあり、風呂に浸かりながら滝を眺めることができた。日本では事情が変わっていて男女が一緒に風呂に入ることは無くなっていた。もし女性が入っていたら男性は女性が出るまで待ち、また男性が入っていたら女性が待つというルールになっていた。

入浴後、浴衣に着替え、下駄を履き”カランコロン”と近くの映画館に出かけた。映画館ではアメリカ映画を日本語字幕で上映していた。セリフを直接理解していたのは私たちだけで、”クラスで一番賢い子”になった気分だった。

宿の床に「布団」と呼ばれるマットを敷いて寝た。豆が詰まった枕を除けばとても快適だった。枕の寝心地はあまり良くなかったが、枕投げはとても面白かった。

鴨川から45分くらいのところに勝浦という場所があった。勝浦は数キロにわたる岬に囲われていて、風から守られた深い湾になった場所だ。ビーチは砂浜、ボトムはリーフというポイントだった。ここの波は形が良く、ラグナビーチのセント・アンを彷彿させる素晴らしい波だった。唯一の違いはここ勝浦では10フィートや12フィートの波がクローズアウトせずサーフできたことだ。素晴らしく掘れたライトブレイクの波だった。勝浦で8フィート以上あった日、シェルタービーチのポイントのひとつで、20フィート以上の波がブレイクするのを見たが、ポイントが岩だらけだったのでサーフはあきらめた。

波が上がった時に同時に何箇所も見に行くことはできなかったが、日本の海岸にはまだ大きな波が立つスポットが数多くあると思う。滞在中、風にも天候にも恵まれた。丸1週間全く風が吹くことはなかった。たとえ鴨川でオンショアでも勝浦ではオフショアになり、またその逆もある。

この旅は全ての面で成功だった。日本での1ヶ月間、私たちは3フィートから20フィートの波を経験できた。水温は20度を下回ることはなく、風も穏やかだった。人口1億のこの国でサーファーは私たちだけ、何百ものビーチとすべての波を独り占めできた。このような素晴らしい場所、そして日本のフレンドリーな人たちと別れるのは残念でならなかった。見知らぬ土地で新たなサーフポイントを見つけ、探検したことは、ずっと忘れられない経験だ。私たちにとってこの旅は、まさに「エンドレスサマー」だった。

東京近郊のサーフエリア
上:パーフェクトな日本の波を突き進むデル 下:ブレイクする波のフェイスのデル 写真:T.タカハラ

編集部注:ブルースはマイク・ヒンソン、ロバート・オーガストと共に、セネガル、ガーナ、ナイジェリア、南アフリカ、ニュージーランド、タヒチを回る世界一周の旅を終えており、残念ながら、この日本の旅は映画「エンドレスサマー」には収録されていない。この2年間のブルースの旅は1本の映画や記事に凝縮するにはあまりにも多すぎる。日本の素晴らしい場所を撮影したフィルムは今後の彼の映画に使われることだろう。サーファーたちのアドベンチャーシリーズはこれからも続けられる。

以上SURFER MAGAZINE(Vol.5 No.3)より

*1:佐賀紀允氏によるとフィル・ドリップ氏について、全米トランポリン選手権保持者であり、日本トランポリン株式会社の副社長。彼からは波の中での体の使い方、カットバックやボトムターンの仕方など、また鵠沼だけでなく台風の近づいた荒れた海でのポイント選びを教えてくれたと述べている。(「サーフィン・ザ・オフィシャル・ハンドブック〜日本のサーフィンの歴史」1986年)
*2:原文では最初のポイントを”Sakanigawa”と記され、地図も相模川あたりを示しているが、本文の内容から”酒匂川”と訳した。
*3:ドエニーはロングビーチにあるサーフポイント。デル・キャノン氏がサーフィンを始めた場所でもある。

残念なことにこの日本での旅の様子は、その後彼の映画でフューチャーされることはなかった。雑誌NALU No.78(2010年10月)の記事では、彼の映画「Surfin’ Shorts」でわずかながら紹介されたとある。また彼の孫にあたるウェス・ブラウン氏が12本のフィルムを所蔵しているとのこと、日本を舞台にした「もうひとつのエンドレス・サマー」を待ち望んでいる。またタック・カワハラ氏が撮影した当時の写真もぜひ写真展などで公開してもらいたい。

1960年代の日本(2)につづく