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1982年という時代
1977年からのブームも落ち着いてきた1982年。一時のブームは去ってもサーフィン人口は確実に増え、全国的にサーフショップやサーフブティックも増えてきました。
サーフィン人口の増加は、日本ばかりでなく世界的な傾向で、メジャーポイントでのトラブルも増えました。
また70年代前半まではアメリカでも個人経営のサーフショップが主流でスモールビジネスの世界でしたが、世界的なブームによりサーフビジネスが大きく成長すると、商標や著作権などの契約関係のトラブルも増えていった時代でした。
サーフィンを取り巻く環境が大きく変わった1982年、 湘南やサーフィンはどうだったか。
サーフメディア
1976年にサーフィンの専門雑誌「サーフィンワールド」が誕生したのち、1980年前後の創刊ラッシュで82年にはサーフィン誌4誌、サーフファッション誌1誌となった。一方ブームの終焉を悟ったファッション誌は、湘南特集やサーフィン紹介記事は79年をピークに減少し、80年代に入ると皆無となった。
・サーフィンワールド(オーシャンライフ社):1976年創刊 1980年オーシャンライフ社の倒産による4ヶ月の休刊ののち11月号より2代目編集長にドジ井坂氏を迎え復刊した。紙面も大幅刷新し、国内記事、コンテスト情報、ノウハウ記事が多くなった。81年には井坂氏より大久保裕文氏に編集長が変わった。
(2016年廃刊)
・サーフマガジン(サーフマガジン社):1978年創刊 1976年からのパイロット版の無料配布を経て1978年にダイビングワールドの別冊[編集/サーフマガジン、発行/マリン企画]として創刊、編集長は加藤信男氏。79年からはサーフマガジン社の編集/発行となった。辻堂にある同じJSPグループのサーフショップ「サーフ&サンズ」の2階に編集室があった。国内ポイントの取材記事、湘南関連の記事が多い。
(1984年廃刊)
・サーフィンライフ(マリン企画):1980年4月創刊 編集長は森下茂男氏。国内外のコンテスト記事のほか、地方のポイント紹介、初心者向けハウツー記事、対談記事と多岐にわたる誌面。80年よりカタログ特集号を発行。2016年発行元のマリン企画の倒産により廃刊、2017年ダイバー社が引き継ぎ復刊、現在に至る。
・サーフィンクラシック(ハイ・パブリケーション):1980年創刊 オーシャンライフ社の倒産を機にサーフィンワールド初代編集長石井秀明氏が独立して作ったサーフィン誌。誌面は旧サーフィンワールドを引き継ぐ内容で、氏の海外人脈を生かした海外記事が多い。(1984年休刊)
*石井氏は2006年「波羅門」を創刊、2号ほど発行している。
・Fine(日之出出版):1978年創刊 サブタイトルに”Magazine for Surfer Girls”とある通り、女性向けのサーフファッション誌。内容はファッション、グルメ、ビューティー、初心者向入門記事といった構成になっている。81年よりサーファーズカタログを発行、毎年シーズン前にマップ付き湘南特集を組んでいる。
その他のサーフメディア
*月刊Take Off(月刊Take Off編集室):78年創刊の関西エリアのサーフィン情報誌。西日本のコンテスト情報、関西のショップ紹介、ディスコのイベントなど関西サーファーの貴重な情報源。
*ル・ボラン(立風書房):クルマ雑誌の”ル・ボラン”が79年〜81年に「別冊サーファー’79〜’81」を毎年出版していた。
サーフポイント
湘南の海岸線や海岸周辺が大きく変わるのは85年以降。82年は76年とほぼ変わっていない。
サーフポイントの名前はメジャーなポイント名は定着し、また新たなポイント名が増えていった。
湘南サーフマップ1982に詳細を記す。
サーフショップ
1976年当時鎌倉、藤沢、茅ヶ崎エリアには18店舗(鎌倉5、藤沢6、茅ヶ崎7)あったサーフショップ(サーフアパレル、ウインドも含む)ですが、82年には50店舗(鎌倉17、藤沢16、茅ヶ崎17)にまで増えました。この6年間で新規開店が増える一方、76年に営業していたお店の1/3ほどが閉店しています。新規の店舗の多くはサーフボードメーカーのシェーパーが独立したり、ショップを持たないサーフボードビルダーが自身のショップを開いたりしました。またウインドサーフィンが普及し始め、サーフショップや工場でもウインドを扱うお店が増えてきました。
サーフボード
70年代初めに登場したスティーブ・リズ型ニーボードをスタンドアップボードに改良したツインフィンが第1世代とすれば、第2世代は1977−78年のシーズンでマーク・リチャーズが使用したツインフィン。彼やラリー・バートルマンがハワイノースの波で使えることを証明し、大会でも好成績を収めたため、ツインフィンが世界的に大流行することとなりました(俗にいう”ツインフィンフィーバー”)。
ツインフィンは80年にノーズ幅がテール幅(注)より狭い”ニードルノーズ”に進化していき、81年にオーストラリアのサイモン・アンダーソンが自身が開発したトライフィン(スラスター)を使ってIPSサーキットで大活躍するまでフィーバーは続きました。
82年になると国内各メーカーは一斉にトライフィンの日本の波でのテストが進められました。
82年の国内のプロが使用していたボードを見ると、ツインとトライが半々、長さ170〜175cm 幅51cm前後、厚み7cm前後というものでした。一般に販売されているボードは175〜180cmのシングル、ツインが中心でしたが、トライも店頭に並ぶようになりました。
国内では、まだプロのボードにスポンサーロゴは付いていませんでしたが、海外ではスポンサーロゴが付くボードが現れ始めました。
(注):ノーズ/テール幅=ノーズ/テールから1フィート(30cm)の幅
サーフトランクス
78年頃から国際大会でのオーストラリア勢の活躍に伴って、オーストラリアブランドが台頭してきました。特にクイックシルバーは多くのトップサーファーに使用されていたことで人気がありました(ノースショアで配っていたという話も)。この頃はショート丈が主流でした。
そのほかOP、オフショア、サンデッキ、ガチャ、ビラボーンなどのサーフアパレルに加え、多くのサーフボードブランドがアパレルに進出するようになりました。
ウエットスーツ
70年代後半より両面ジャージのウェットが一般になり、現在に至るまで一番カラフルな時代でした。ネオプレーン生地の芯にホワイトラバーを使うことで彩度のある両面ジャージが作られていました。また半袖スプリングやシーガルが出たのも80年頃からでした。
海外のトッププロが多く着用していたのがリップカール。この頃はクイックシルバー(トランクス)とリップカール(ウエットスーツ)は互いの領域を犯すことはありませんでした。また国内のメーカーも増え、材料から裁断縫製まで世界トップクラスの品質になり、80年代に入ると海外トップサーファーと契約する国内メーカーも増えてきました。
当時日本で販売されていた主なウェットスーツメーカー
・日本メーカー:ビクトリー/ ダブ/ サムライ/ セッション/ ラッシュ/ フィットシステムズ/ ブレイカーアウト/ ホットライン/ マーガレットリバー/ 4X / ジグザグ/ シーライオン/ シャンティ
・海外メーカー:リップカール(豪)/ オニール(米)/ ボディグローブ(米)/ プリモ(米)/ パイピングホット(米)/ アリーダ(米)
その他サーフイクイップメント
・リーシュ:80年ごろからゴムチューブからウレタンコードに変わり、ゴムの劣化による断裂という問題は無くなりましたが、ボードにコードが食い込むことが多くなり、レールセーバーが生まれました。また足首のベルクロとコードとの接続には金属製の”よりもどし”が使われていたため、リーシュの切断はこの部分で起こることが多くなりました。
この頃のウレタンコードには巻きクセがあり、足に絡むのを嫌がる人もいたため、ラバーのリーシュもまだ販売されていました。
・ワックス:ワックスは全てが輸入品で、数種類ありましたが性能の面からもセックスワックスがほぼ独占状態にありました。1個200円
サーフクラブ
80年代に入ると、ショップの増加に伴い顧客を対象にしたショップクラブが増え、クラブチームの主要メンバーがショップクラブに移籍し、メンバー不足になるクラブもありました。80年には神奈川県のNSAの支部は鎌倉、藤沢、茅ヶ崎の3支部に平塚支部、西湘支部が加わり5支部となり、さらに82年には川崎・横浜支部、83年に相模原支部が加わりました。
77年に始まった支部対抗戦「湘南カップ」はその後も継続され、81年の「第5回湘南カップ」では従来の3支部で開催(82年は未確認)、83年の「第7回湘南カップ」は9月25日七里ヶ浜で、平塚、西湘を加えた5支部で開催されました。
🔳次回は湘南サーフマップ1982【鎌倉】