第36回 あの頃の湘南Surfing (9)1990年

第36回 あの頃の湘南Surfing (9)1990年
2024-05-23

1987年の「湘南100年祭」に続き、90年には湘南全域で行われた「SURF’90」という大きなイベントがありました。また稲村ヶ崎を舞台にした桑田佳祐監督の映画「稲村ジェーン」の公開、翌年には湘南が舞台のホイチョイ3部作の「波の数ほど抱きしめて」の公開があって活気のある年でした。

SURF’90

「SURF ’90」は「相模湾・アーバン・リゾート・フェスティバル・1990」の頭文字をとった略称で、相模湾を新しいアーバンリゾート都市として盛り上げるイベントで、「美しい渚」、「海を楽しむ」、「新しい海業」をテーマに、数々のライブやアトラクション、サーフィン、ボードセーリング、ビーチバレーなど多くのビーチスポーツやマリンスポーツの大会が催されました。

期間は4月29日から10月10日までの165日間、相模湾沿岸一帯でイベントが行われましたが、藤沢、平塚、小田原、三浦には特設会場が設けられ、メイン会場の藤沢では境川から引地川までボードウォークが敷かれ、太陽の広場跡に設置された屋外イベント会場では連日ライブやアトラクションが行われました。また期間中湘南一帯で視聴できる「SURF’90FM放送局」(SURF90FM "JOOZ -FM”)が開局されました。

このイベント以降、防災や海岸整備、施設の拡充が図られ、ビーチは綺麗にメインテナンスされ、ビーチスポーツが盛んに行われるようになりました。

SURF’)0サーフィン大会のエントリー案内 往復はがきで申込む従来にない方法だった。

サーフメディア

1982年には4誌あったサーフィン誌も、84年に「サーフィンクラシック」が休刊、「サーフマガジン」が廃刊となり、しばらく「サーフィンワールド」と「サーフィンライフ」の2誌体制が続いていましたが、87年に「日本版サーファー」が創刊され3誌となりました。

サーフィンワールド(オーシャンライフ社)750円:1976年創刊 カラー写真が多く良い紙質を使っている。国内外のコンテスト記事のほか、海外のポイント紹介、テクニック特集、インタビュー記事と多岐にわたる誌面。毎年4月頃に「サーフストーリーズ」という別冊のカタログ特集号が発売になる。海外記事は海外のライターによるものが多い。84年ごろから湘南のショップ広告が減少するとともに湘南関連の記事も少なくなった。
(2016年廃刊)


サーフィンライフ(マリン企画)750円:1980年4月創刊 こちらも「サーフィンワールド」と同じく初心者からコンペティターまで幅広い層を対象とした内容となっている。ワールド同様84年ごろから湘南のショップ広告は減少。ただ数年に一度湘南特集が組まれる。毎年6月号がカタログ特集号になっている。1987年〜88年には中高校生向きの「サーフィンライフジュニア」を別冊として発刊。1990年にはボディボード専門の「フリッパー」が創刊された。2016年発行元のマリン企画の倒産により廃刊したが、2017年ダイバー社が引き継ぎ復刊、現在に至る。

サーファー(サーファーパブリシング)680円:1987年ヨット・ボートの雑誌「舵」の別冊として登場したのが「日本版SURFER」。アメリカSURFER誌との提携という雑誌だが、翻訳記事は1〜2割程度でほとんどが独自取材による国内情報という内容。上記2誌と比べ、トップアマのレポートや湘南のローカル記事、ショップ情報などの情報記事が多い。サーフィン以外のスノーボード、スケートボードの記事も掲載。1991年に廃刊となった。


Fine(日之出出版)410円:1978年創刊 サブタイトルが”Magazine for Surfer Girls”から”Surf & Street magazine”に変わるも、内容は女性向けのサーフファッション誌。創刊以来ファッション、グルメ、ビューティー、初心者向入門記事といった構成になっている。他のファッション誌がサーフファッションから離れてもなお一貫して取り上げ続けている。プロサーキットが始まると特集される”サーファー名鑑”ではプロサーファーのプロフィールに加えファンレターの宛先も記載されている。また毎年夏前にマップ付き湘南特集を組んでいる。コンテストレポートはほぼ1ヶ月後発売の号には掲載され、速さでサーファー誌を上回っていた。

月刊Take Off(月刊Take Off編集室):1978年創刊の関西エリアに特化したサーフィン情報誌。関西サーファーの貴重な情報源。全国誌では取り上げられない関西エリアのイベントやショップ情報を網羅。(93年ごろ廃刊)

サーフムービー&ビデオ

50年代からサーフカルチャーの中心にあったサーフィン映画もビデオの普及により1985年以降制作が減少し、1991年の”Rolling Thunder“を最後に劇場公開用の作品は作られなくなりました。一方ビデオが普及し、従来は過去の映画のビデオ化がメインでしたが、レッスンビデオやビデオ販売用の作品が作られました。レッスンビデオで5000円〜、映画ビデオで7000〜10000円と高額なものでした。

90年頃に製作されたビデオ。企業がスポンサーになる作品が増えた。

サーフショップ

80年代以降全国的にサーフィン人口は増え続け、全国各地にサーフショップができました。とはいえ、サーフボード工場やウェットスーツメーカー、ショップは相変わらず湘南に集中しており、サーフィン産業の中心となっていました。

黎明期から80年代前半まで湘南のサーフボード工場の多くが直営ショップを持っていましたが、80年代後半になると店舗を持たず卸のみのビルダーや自社ブランド以外のOEMを行う工場もありました。

1976年〜1990年湘南のサーフショップ数推移(サーフアパレル、ウインド専門店を除く)


1976年:16店舗(鎌倉4、藤沢6、茅ヶ崎6)
1982年:43店舗(鎌倉13、藤沢15、茅ヶ崎15)
1990年:66店舗(鎌倉12、藤沢34、茅ヶ崎23)*
*90年中に同じテナントに閉店、開店があった場合、2店舗としてカウント


年々新規開店は増加しているものの、退店、廃業、移転、転業などのお店も多く、新規開店の総数はこの増加数以上の数になります。

鎌倉:藤沢、茅ヶ崎に比べショップ数の新規出店も少なく、経営が難しいエリアと言われている。材木座、由比ヶ浜エリアにウインド専門店が増加するも、稲村から七里にかけての134号線沿いにあったショップの多くが飲食店やブティックに変わった。134号線沿いに比べ比較的場所が開けている腰越から深沢にかけてショップが集中するようになり5軒のショップがある。

藤沢:江ノ島エリアにはウインド専門店が増加。また電車サーファーの増加で鵠沼海岸エリアには多くのショップが出店。82年にはユニティ、べティーズ、レッドウェーブ、サーフリポート、モスの5店舗だったが、90年には26店舗となった。また辻堂のサーファー通りには一本の通りに10軒のショップが並びまさに「日本のハンティントンビーチ*」と言われるエリアになっている。

茅ヶ崎:チサン近くの汐見台周辺はショップのほか「ピーカーブー」や「SHADE’S」もあってサーフファッションの発信エリアとなっているが、なんといっても東海岸、中海岸エリアにはゴッデス、ドミンゴ、フリュードパワー、アニーズといった老舗も多く15軒ほどのショップが集まっている。

*マーボーこと小室正則氏はカリフォルニアのハンティントンビーチに似た日本全国からサーフィンを見に来るような「サーフィンの文化」があるところにしたいと述べている。(Surfer誌1990年2月号)

サーフボード

歴史が長い湘南ではロングボードも盛んに行われるようになり、90年にはJPSAにロンボード委員会が出来たりしましたが、全国的にはまだショートボードが主流という時代でした。また1985年9月のプラザ合意後の円高ドル安により外国製サーフボードや海外サーフブランドが多く輸入されるようになりました。

82年頃から出始めたトライフィンも85年にはショートボードのスタンダードになりました。
90年当時のストックボードのサイズは、[長さ6’1”〜6’2”(183〜185cm) 幅19”(48cm) 厚み2-3/8”(6cm)]で、82年のサイズ[長さ170〜175cm 幅51cm前後、厚み7cm]に比べ長く、細く、薄くなっています。テール形状はほぼスカッシュかスクウェアに絞られ、フィンのサイズは10.5X11.5(h)cm前後で、グラスオンフィン*でした。

ブランクスは多くのメーカーがアメリカのクラークフォーム社のスーパーブルーを使用、4オンスSクロス、デッキ2層、ボトム1層で巻いています。

当時はバフ仕上げが一般的でしたが、80年代後半にオーストラリア製のボードに「プロテック仕上げ」という表面が艶消しになったボードが登場します。これはサンディング仕上げの上にプロテック溶剤を吹き付けたもので、溶剤がフォームにまで浸透することでクロス目や樹脂やフォームのピンホールを埋め、強度が上がるとともに仕上がりも綺麗になるため、生産性が向上し、さらに表面の艶消し仕上げにより水流が改善されるというものでした。

プロが使用するボードはサイズはほぼ一般用と同じですが、ブランクスを超軽量のウルトラライト、両面4オンス1層+デッキ、サンディングフィニッシュという耐久性は劣るもののかなり軽いボードになっています。

また1990年頃のボードはボードメーカーやスポンサーロゴが大きく派手なことが最大の特徴になっています。

(左)1985年モデル テールフィンがボックスになっています。 (右)1991年モデル グレン松本プロ使用ボード

*ゴリラグリップ社が開発した着脱可能フィンシステム(FCS)が登場するのが1994年。それまではグラスオンフィンが主流だった。

サーフアパレル

70年代はアメリカブランド、80年代に入るとオーストラリアブランドの台頭、そして85年以降は円高により海外サーフブランドが多く輸入されるようになりました。また80年代中頃には「ピーカーブー(バジル)」や「SHADE’S」のような湘南発のブランドが誕生しました。

90年ごろの湘南のサーフショップ、サーフブティックで扱っていた主なサーフアパレルブランド(ボードやウエットメーカー以外):
OP、クイックシルバー、ビラボーン、オフショア、マウイ&サンズ、サンデック、ガチャ、キャチイット、ホットツナ、ジミーズ、ステューシー、モッシモ、インスティンクト、ビーチタウン、ライフザビーチ、パンプキン・ジェッティ、バリバレル、バリココナッツツリー、フォワーディングギア、シェイズ、ピーカーブー、スポーティフなど。

90年頃のボードショーツ マウイ&サンズ

ウエットスーツ

引き続き両面ジャージのウェットが主流で、80年頃よりは黒や紺、ブルーベースのものが増えてきてはいましたが派手な色合いのウェットも多かった時代でした。日本製ウェットの品質が世界一になったことから「ビクトリー」や「ホットライン」はアメリカにも拠点を置くようになりました。ショップやサーフボードメーカー同様、ウェットスーツも全国で作られるようになりましたが、やはり神奈川県内には多くのメーカーが集中しています。

神奈川県内の主なメーカー(ブランド名):イナポリトレーディング(ラッシュ)、モアモスト(マキシム)、B&M(フューチャー)、ムーブメン(ムーブメン)、マリンプラスチック(ホットライン)、フィットシステムズ(フィットシステムズ)、PCA(4X、マーガレットリバー)、ゼロカンパニー(Zero)、マインドエイク(View)、ダブ(ダブ、ウェーブアタック)、ゴッデス(サムライ)、ヌーベルバーグ(レボリューション、Zeroモード、ピーク)、デュース(デュース)、ジャパンウェットスーツ(バッファロー)、シーワールド(ブレーカーアウト、AXE)、ビクトリー(ビクトリー)、ワイ&ワイズ(エレム)、オーシャンタキシード(オーシャンタキシード)、マジックアイランド(マジックアイランド)、フリーダム(フリーダム)など

サーフイクイップメント


リーシュ:ウレタンコード、レールセーバーは標準、足首のベルクロ内側にネオプレーンが装着され、フィット性とグリップ性が向上。コードとの接続には金属製の”よりもどし”から専用のプラ製の回転スイベルが使われるようになりました。リーシュは全て輸入品でした。
主なリーシュブランド:10フィートコード、フルボア、オーシャン&アース、クリーチャー、サーフモア、パイプラインズ、ベイリン

90年Ocean &Earth社広告(サーフィンワールド1990年5月号)

ワックス:”バブルガム”や”WAXXON”など数種類ありましたが、”セックスワックス”がほぼ独占状態にありました。1個200円

デッキパッド:82年頃よりアストロデッキ社が正方形や円形の滑り止めシールが売り出しましたが、86年になってアストロデッキ社やゴリラグリップ社の凹凸のあるパッドが輸入されると一気に普及することになりました。90年には前足用パッドを使うサーファーも多くなりました。当時は「デッキパッチ」と呼ばれていました。


主なデッキブランド:アストロデッキ、ゴリラグリップ、トラックトップ、プロサーフ、ミラクルデッキ

1982年アストロデッキの紹介記事(1982年サーフィンライフカタログ号)
1990年アウトロデッキ(輸入元マニューバーライン社)の広告(1990年サーフィンライフ7月号)

ボードケース:80年頃よりボードをケースに入れるようになり、キルトやキャンバスで作られていたが、86年頃にナイロンでクッション材が入ったハードケースやニットケースが輸入されるようになり、特に電車サーファーに愛用されるようになりました。

主なボードケースブランド:デュラサック、トランスポーター、ディスカバリー

最近見かけなくなったサーフグッズ

パドルグローブ:水かきがついたグローブ。水をキャッチできるものの肘や腕に相当負担がくる。

ノーズガード:87年ごろ登場。「ノーズガード社」が販売しているセイフティサーフのためのノーズにつけるゴム製のキャップ。

ウエットパンツ:ウェット生地でできたパンツ。滑らないし、擦れないし良かったがいつの間にかなくなった。

ウエットパンツの広告(1990年SL8月号)

ZINKA:87年頃より出始めた蛍光色の日焼け止め。90年はネオンカラーの時代だった。

ZiNKAの広告(1987年Surfing6月号)

サーフクラブ

80年代に入ると、ショップの増加に伴い顧客を対象にしたショップクラブが急増、クラブチームの主要メンバーがショップクラブに移籍し、メンバー不足になるクラブもありました。

82年には神奈川県内のNSA支部は鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、西湘、川崎・横浜支部の6支部でしたが、83年に相模原支部が加わり7支部となり、86年には川崎と横浜が分かれ8支部となりました。88年には鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、西湘支部の名称が頭に湘南〜が付く変更がありました。

77年に始まった支部対抗戦「湘南カップ」はその後も継続され、81年の「第5回湘南カップ」では従来の3支部で開催(82年は未確認)、83年の「第7回湘南カップ」は平塚、西湘を加えた5支部で開催されました。「第13回湘南カップ」は89年11月12日 藤沢、茅ヶ崎、鎌倉、平塚、西湘の5支部により、鵠沼プールガーデン前で開催されましたが、その後はしばらく開催されず、第14回が行われたのは、2004年9月26日鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、湘南西支部によって鵠沼スケパー前にて15年ぶりの開催となりました。

また90年7月15日に茅ヶ崎、藤沢、千葉西、千葉東、千葉南支部による「5支部対抗コンテスト」が志田下ポイントで開催されました。

🔳次回は湘南サーフマップ1990【鎌倉】