第33回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(2)1964 

第33回 アメリカ人サーファーが見た60年代の日本(2)1964 
2024-01-07

1963年ブルース・ブラウン氏らが訪日した時は日本人サーファーを見つけることはできなかったが、翌年の1964年には日本でサーフィンが普及し、さらにサーフィン大会が開催されるに至ったことがPeterson’s Surfing誌がレポートしています。

Petersen’s Surfing誌は、1964年から69年まで毎年イヤーブックを発行し、アメリカ各地に加え各国のサーフィン情報やトピックスをレポートしています。
1965年発行のNo.2では63年のブルース・ブラウン氏来日、66年発行のNo.3では64年の大会の様子がレポートされています。

Petersen’s Surfing Yearbook No.2

1965年発行のイヤーブックには各国のサーフィン情報の中、4ページに渡り日本が紹介されています。記事は映画「エンドレスサマー」の監督ブルース・ブラウン氏の寄稿で、ブルース氏と”日本のサーフィンの父”と呼ばれているタック・カワハラ氏の写真が掲載されています。

記事は1963年「エンドレスサマー」の撮影のため、ロングビーチ出身のサーファー、デル・キャノン氏、とオーシャンビーチ出身の13歳ピート・ジョンソン氏と共に来日した時のレポートですが、第32回で紹介したデル・キャノン氏がSurfer誌に投稿した内容とほぼ同じですが、こちらでは九十九里や下田まで足を伸ばしたことも述べてられています。

以下SURFING YEARBOOK No.2の記事要約

JAPAN 文:ブルース・ブラウン

当初、日本はサーフィンに行く場所だとは思わっていなかった。しかし日本に来て、美しい海岸と良い波を見て考えは変わった。数週間の滞在中、数百キロの海岸線を探検しただけで4〜5箇所の良いポイントを見つけることができた。波は南カリフォルニアに似てて、水温は日本の方が少し暖かく、午前中はグラッシーで午後から風が吹きだすのもカリフォルニアと同じだ。

日本は物価が安いということが魅力だが、ポイントを見つけるのには苦労した。何しろ車を使う以外方法はなく、レンタカーは非常に高かった。それに町中の交通渋滞も酷いものだった。田舎に行けば道は凸凹で、どこへ行くにも相当時間がかかる。

サーフスポットについて簡単に説明すると、東京の北(訳者注:正くは南西ですね)にある下田という場所は、多くの入江と白い砂浜がある場所で、大きな波でも2フィート程度だった。東京や横浜から近い酒匂川の河口はカリフォルニアに似た波で、小さな波にもかかわらずひどいワイプアウトを喰らった。ここでは5フィートまで波が上がった。

東京湾を渡り九十九里まで足を伸ばしたが、そこは似たり寄ったりのビーチブレイクばかりだった。私たちが見つけた最高の場所のひとつがカモガワブレイクウォーター(鴨川堤防)というポイント。滞在中波は2〜8フィートで、ドヘニービーチに似た乗りやすい波で楽しめた。もうひとつが勝浦、ラグナビーチのセントアンを彷彿させる波だが、勝浦の方がより長くライド可能だ。こちらは2〜10フィート。ある日、この近くのポイントで20フィートを超える波が立っていた。

以上Pteterson’s Surfing No.2より

Petersen’s Surfing Yearbook No.3

1966年発行のイヤーブック1965年版では、1964年8月に鴨川で開催された「国際サーフィン選手権」の模様がレポートされている。この大会は7月に行われた日本で初めてのサーフィンコンテストの2ヶ月後に行われ、外国人を交えた初めての大会となった。

以下SURFING YEARBOOK No.3の記事

JAPAN

日本中の若者がサーフィンに熱中している。この大会の日本部門には日本人サーファー42名がエントリーしていて、上位8名がインターナショナル部門に出場できることになっている。

海外からの参加者は約30名、主にアメリカ人だった。8名のサーファーによって決勝ヒートが行われ、日本チャンピオンの川井幹雄がハワイのデニス・マッカラー、サンディエゴのドナルド・スマイジックに次いで3位に入った。

川井幹雄は鴨川ドルフィンズサーフクラブのメンバーで、今年の7月に開催された全日本選手権(※)で優勝を飾っている。彼はレギュラースタンスでテイクオフし、ターンの後にグーフィーにチェンジする独特のスタイルを持っている。外国人サーファーとの交流も盛んで、ノーズワークに定評のあるサーファーだ。

大会は台風の影響で、8月22日から29日に延期された。日本の台風シーズンは8月後半から10月まで続く。暴風警報が発令されると漁船は浜から引き上げられ、道路脇に並べられる。漁師は海が荒れる4〜5日間は漁には出れないが、家が流されないようにするため、休みになるわけではない。

台風が直撃する3〜6日間は6フィートの白波が立つチョッピーなコンディションのためサーフィンはできないが、台風の直前と直後は素晴らしいサーフィンができる。大会を遅らせた台風は土曜日から強風が吹き始めたが、金曜日には最高のサーフィンが楽しめた。

大会当日は、鴨川という小さな町の半数の人が日傘持参で大勢押し寄せ、堤防に陣取り観戦した。鴨川の波は堤防の左側に北うねりで形作られ、午後に吹く風の影響を受けにくい。この日は思ったより小さかったが、終日安定して入ってきていた。

日本部門のヒート中はベストコンディションだったが、インターナショナル部門のファイナルになると小さくなってしまった。

波は期待したほどではなかったものの、大会はうまく運営され、選手は満足していた。
本大会の成功と世間の注目度から、日本のサーフィンは確実に発展していくだろう。

日本は波の良さだけでなく、白い砂浜や夕日、繊細な木々が美しい場所だ。日本では「サーフィン」が単に波に乗るだけのものではなく、周りの景色やさまざまなことを含め素晴らしいと感じさせてくれる。

インターナショナル部門3位の素晴らしいグーフィーフッター川井幹雄
優勝を飾ったデニス・マッカラー
1位デニス・マッカラー(ハワイ) 2位ドナルド・スマイジック(カリフォルニア)3位川井幹雄(日本)
サーフィンに関心を寄せる日本の人々

以上Petersen’s Surfing Yearbook No.3(1966)より

※1964年に開催されたこの「全日本選手権大会」は日本サーフィン連盟発足後の1965年「第1回全日本サーフィン選手権大会」とは別の大会

「サーフィン:オフィシャルハンドブック」(1986年 学習研究社)に佐賀紀允氏が寄稿した「日本のサーフィンの歴史1」にもこの大会についての記載があり、優勝のドン・スマイジック氏は米駐留軍司令官の息子、2位のデニス・マッカラー氏は世界選手権ジュニアクラスの4位とある。またこの大会の4位にはタック・カワハラ氏が入賞したと述べている。この大会で知り合った佐賀亜光氏、坂田道氏、中村一己氏、高橋太郎氏、菅能琇一氏の5人によって日本サーフィン連盟が結成されたとの記載がある。

1960年代の日本(3)につづく